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| 50音別/あ か さ た な は ま や ら わ [参考資料・サイト一覧] |
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永井荷風ながい かふう |
| 墓碑位置:1種1号7側3番 職 業:小説家・随筆家 略 歴:本名、壮吉。断腸亭主人と号する。東京生れ。東京外語学校(東京外語大学)に学び、エリート官僚の父への反発から広津柳浪に師事して作家修行に入る。学校を除籍となる。フランスの自然主義作家ゾラに心酔し『地獄の花』を書き、日本の前期自然主義の代表作家となる。渡米・渡仏後には『あめりか物語』『ふらんす物語』、大正に入って享楽的作品『腕くらべ』『おかめ笹』などを発表。反自然主義・耽美派の中心的作家として活躍した。耽美派の拠点となった文芸雑誌「三田文学」を主宰。代表作『墨東綺譚』で不動の地位を築く。 |
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| 著書・作品 『すみだ川』/明治42年。明治の無秩序な西洋化をきらい、江戸情緒の中に美を求めるようになる。 『珊瑚集』/大正2年。フランス近代詩38編の訳詩集。原詩の情趣を伝えた文語自由詩は北原白秋や三木露風たち多くの詩人に影響を与えた。 『断腸亭日乗』/大正6年からその死まで綴られた。荷風の反俗精神が現れた日記。時代を知る重要な資料でもある。 |
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中島力造なかじま りきぞう |
| 墓碑位置:1種16号11側*番 職 業:倫理学者 略 歴:同志社に学び、アメリカ・イギリス・ドイツに留学。東京帝国大文科大学教授となり心理学・倫理学を教える。高等商業学校講師・女子高等師範学校教授を兼任。イギリスの新カント派の倫理学・自我実言説を日本に紹介した功績は大きい。 |
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| 著書・作品 『列伝体西洋哲学小史』 |
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中濱万次郎(ジョン万次郎)なかはま まんじろう(じょん まんじろう) |
| 墓碑位置:1種15号19側1番 職 業:幕臣・語学者(翻訳・通訳) 略 歴:土佐生れ。15才の時に操業中の漁船が遭難・漂流、アメリカの捕鯨船に救助され渡米。英語・数学・航海術・測量術を学ぶ。12年後に帰国、貴重な漂流体験を語り伝え、土佐藩士から幕臣に取り立てられる。翻訳など語学を生かして活躍、捕鯨の指導も行った。軍艦操練所教授となる。万延元年(1860)、日米修好通商条約の批准書交換のための遣米使節団の一人として、咸臨丸に乗ってアメリカに渡る。明治維新後は新政府に仕え、開成学校教授となる。 |
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中村是公なかむら ぜこう |
| 墓碑位置:1種2号10側*番 職 業:官僚 略 歴:後藤新平のあと満鉄総裁となり発展に尽くす。鉄道院総裁。東京市長となり震災復興に努力する。夏目漱石と親交を結ぶ。 |
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夏目漱石なつめ そうせき |
| 墓碑位置:1種14号1側3番 職 業:小説家・英文学者 略 歴:本名、金之助。東京生れ。五男三女の末っ子。生後間もなく里子に出され、連れ戻されて別の家の養子になるが21才で生家に復籍している。大学予備門時代に正岡子規と親交を結ぶ。この頃より「漱石」と署名。東京帝国大学英文学科で学んだ後、東京高等師範学校、愛媛の伊代尋常中学(松山中学)、熊本の第五高等学校で教える。文部省イギリス留学生としてロンドンで勉強するが、研究意義への懐疑、日本と西欧の圧倒的隔たりへの衝撃、孤独感などで精神を病む。帰国後、一高・帝大英文科の講師をしながら、雑誌「ホトトギス」に『吾輩は猫である』を発表し好評を博す。当時芽生えていた自然主義文学には同調せず、『倫敦塔』『坊っちやん』『草枕』を次々と発表。反自然主義の立場の余裕派といわれた。この時期から多くの門下生が集まるようになる(木曜会)。間もなく創作のため教職を辞し朝日新聞社に入社、専属作家として連載小説を発表していく。自然主義に対抗した個人主義的理想主義を掲げ、全作品を38〜49才の十年間で執筆した。 木曜会/早稲田南町自宅(漱石山房)の書斎で木曜日に行われた弟子たちとの談話会。寺田寅彦、鈴木三重吉、森田草平、久米正雄、芥川龍之介など、門下生は多い。 |
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| 著書・作品 『虞美人草』『坑夫』『文鳥』『夢十夜』『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』『こころ』『硝子戸の中』『道草』『明暗(未完)』 |
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成島司直なるしま もとなお |
| 墓碑位置:1種4A号6側*番 職 業:儒者 略 歴:幕府の奥儒者。東岳または翠麓と号す。林述斎らと江戸幕府歴代将軍の治績・言行を綴った「御実紀(徳川実紀)」を編纂した。 |
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成島柳北なるしま りゅうほく |
| 墓碑位置:1種4A号6側*番 職 業:儒者・漢詩人・随筆家 略 歴:本名、惟弘(これひろ)。東京生れ、成島稼堂の三男。幕府の要職にあったが、明治維新後は官に仕えず言論界で活躍。祖父より江戸気質と文学趣味を受け継ぎ、戯文や風刺文の才能に恵まれた。反政府的「朝野(ちょうや)新聞」の社長として政府批判の論陣を張り筆禍のため投獄される。文明開化の軽薄さに反発。永井荷風に影響を与える。 |
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| 著書・作品 『柳橋新誌』/花柳界を描いた代表作。 『航西日乗』/普仏戦争後のパリを中心に、イタリア、イギリス、アメリカを漫遊後に著した。 |
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成瀬仁造なるせ じんぞう |
| 墓碑位置:1種17号6側*番 職 業:教育者 略 歴:大阪の梅花女学校の主任教師だったが、牧師としてキリスト教の布教活動に入る。アメリカに留学し女子教育を研究、帰国後梅花女学校校長となる。雑誌『女子教育』を創刊し、女子高等教育の必要性を訴える。次いで日本女子大学を創設、初代校長となる。没年まで同校の発展に尽力し教養ある女性の育成につとめた。 |
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額田 晋ぬかだ すすむ |
| 墓碑位置:1種22号5側*番 職 業:医学者 略 歴:岡山県邑久郡生れ。蘭医額田篤太の次男。内科学専攻。東京帝国大学で学び、帝大附属病院助手となり研究に従事するが米国に自費留学。医学博士を取得し帝大講師となり、森鴎外の往診をおこなうなど臨床にも携わった。その後兄の豊とともに帝国女子医学専門学校(現・東邦大学)を創設、校長に就任。昭和14年には千葉市稲毛海岸に額田医学生物研究所を創設。戦後、東邦大学医学部長、東邦大学学長・理事長。 診療と研究・教育のかたわら世界観研究会を主催し、科学的人生観・世界観を提唱した。 |
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| 著書・作品 『(近世内科臨床)診断學』『脈搏結滞之病理及其療法』『内科類症鑑別診斷學』『簡明内科學』『内科學要項』『臨牀藥理學』『内科学』『自然科學の發展』『肺結核の特殊転調療法』『人生観と断層』『科学と共に』『正しい治療のための薬理学』『自然・生命・人間』『世界観』 参考資料・サイト紹介 |
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野添ひとみのぞえ ひとみ |
| 墓碑位置:1種16号10側*番 職 業:俳優 略 歴:本名、川口元子。俳優座演劇研究所で学び、映画『裁かれる十代』でデビュー。初の主演作『処刑の部屋』で注目を集める。昭和30年代の大映青春映画で活躍。川口浩と結婚。代表作は『くちづけ』『巨人と玩具』『白鷺』『浮草』等。大映退社以降はテレビに活躍の場を移し、テレビドラマ『ザ・ガードマン』『キイハンター』『大奥』『虹』、バラエティ番組等に出演した。 |
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