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| 50音別/あ か さ た な は ま や ら わ [参考資料・サイト一覧] |
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羽仁もと子はに もとこ |
| 墓碑位置:1種1号10側42番 職 業:教育者・婦人解放運動家・キリスト教的自由主義者 略 歴:青森県八戸生れ。東京府立第一高等女学校を経て明治女学校に学び(校医は荻野吟子、大塚楠緒子らも通った)、その傍ら巌本善治の「女学雑誌」にかかわる。卒業後帰郷して教員生活に入るが再度上京、報知新聞社に入社し婦人記者第一号となった。 職場で羽仁吉一と知り合い結婚、二人で新家庭から生活雑誌「家庭之友」(後に婦人之友と改題)を創刊(明治36年婦人之友社創設)。「よい家庭からよい社会がつくられる」という二人の信念からはじまった事業は、家庭や社会生活の合理化を目指し、婦人解放に大きな啓蒙的役割を果たしていく(雑司ヶ谷に家と社屋婦人之友社を建てて移ったのは大正3年)。 大正10年、キリスト教自由主義に基づく新しい教育を目指し、高田町大字雑司ヶ谷1151(現西池袋)に自由学園を創立。“生活即教育”をモットーに自由主義の系統的な女子教育を実践、形式的・官僚的なものを排し、文部省によらない教育を創始。自労自治の生活を通じた少人数の教育をおこなった。 墓碑には「思想しつゝ 生活しつゝ 祈りつゝ」と、彼女の信条が刻まれている。 |
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| 撮影日:0000.00.00 | |
| 著書・作品 『婦人之友』『羽仁もと子案 家計簿』『羽仁もと子著作集 全21巻』『主婦日記』 |
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羽仁吉一はに よしかず |
| 墓碑位置:1種1号10側42番 職 業:ジャーナリスト・教育者 略 歴:山口県三田尻(現防府市)出身。漢学を学び上京、報知新聞社に入社。政治ものを中心に活躍し、若くして編集長となり将来を嘱望される。もと子と出会い結婚、退社。その後、地方紙支局長に単身赴任するが間もなく辞職し帰郷。妻とともに婦人之友社、自由学園を創立し、明治生れの男性でありながら生活の傍観者でなく実践生活者として「家庭」思想の創出と生成に力を注いだ。 出版と教育にわたり大事業を成し遂げた二人だが、吉一はもと子の才能を生かすための実際の計画と運営を担っていた。自身を語ることは好まなかったという。 |
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| 撮影日:0000.00.00 | |
| 参考資料・サイト紹介 ・栗原 葉子『羽仁吉一について ー「家庭」思想の源流を求めてー』/名古屋大学大学院 国際言語文化研究科 国際多元文化専攻 論文集『多元文化』第2号(2002年3月) ・婦人之友社 ・自由学園明日館 ・自由学園 |
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羽仁五郎はに ごろう |
| 墓碑位置:1種1号10側42番 職 業:歴史学者 略 歴:群馬県桐生市生れ。旧姓森。近代史研究の先駆。 尋常小学校を卒業後上京。府立第四中学に入るが、学校を批判し停学処分を受ける。旧制第一高等学校独法科入学。東京帝国大学法学部入学後数ヶ月で休学、ハイデルベルク大学で歴史哲学を学ぶ。東京帝国大学文学部史学科に入り、在学中に羽仁説子(羽仁吉一・もと子夫妻の長女)と結婚、羽仁姓となる。 卒業後は三木清、小林勇と雑誌『新興科学の旗のもとに』を創刊、講師先の日本大学で史学科を創立、野呂栄太郎らと『日本資本主義発達史講座』を刊行。昭和7(1932)年に日本大学に史学科を創立。翌年治安維持法違反容疑で検束されるが、その後『ミケルアンヂェロ』などの著述で軍国主義に抵抗、終戦の年に逮捕され敗戦を獄中で向かえる。 戦後は昭和22(1947)年に参議院議員に当選し、革新系議員として1956年まで活動。国立国会図書館を設立(昭和23年)させた国立国会図書館法の前文「真理がわれらを自由にするという確信に立って、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを指名として、ここに設立される」は、当時参議院図書館運営委員長を務めた羽仁五郎の考えにより挿入され、現在に至る。 息子はドキュメンタリー映画監督の羽仁進、孫が羽仁未央。甥に農学者の森喜作がいる |
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| 撮影日:0000.00.00 | |
| 著書・作品 『ミケルアンヂェロ』『明治維新研究』『私の大学 』『君の心が戦争を起こす』『都市』『都市の論理』『羽仁五郎歴史論著作集』『羽仁五郎戦後著作集』など著書多数。 |
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濱田玄達(浜田玄達)はまだ げんたつ |
| 墓碑位置:1種2号10側*番 職 業:医学者 略 歴:熊本医学校校長兼病院長をつとめた後、ドイツに留学し産科学・婦人科学専攻。帰国後、東京大学に助産婦養成所を設置させ、ついで東大医科大学教授、医科大学長となる。辞職後、産科婦人科専門病院を設立。日本婦人科学会会長もつとめ、日本の産科学発展に寄与した。 |
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| 撮影日:0000.00.00 | |
| 参考資料・サイト紹介 ・東大病院だより/東大病院だより No.50(平成17年8月31日) ・東京大学/東京大学案内/東京大学の歴史 |
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林 春雄はやし はるお |
| 墓碑位置:1種16号9側*番 職 業:医学者 略 歴:薬理学の権威。京都帝大・福岡医科大・東京帝大の各教授を歴任、東大では伝染病研究所長・医学部長をつとめた。定年退職後は、逓信病院の創立に尽力し初代院長を、日本薬理学会初代会長、国立公衆衛生院の初代院長を歴任。学士院会員。 |
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| 撮影日:0000.00.00 | |
| 著書・作品 『薬理学』 吐鳳堂(1948年40版) 参考資料・サイト紹介 |
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久松保夫ひさまつ やすお |
| 墓碑位置:1種15号8側*番 職 業:俳優 略 歴:本名、高橋寛(ひろし)。日本橋久松町生れ。青山学院(現・青山学院大学)神学部中退。新築地劇団経営宣伝部に入団、劇団運営や集客など裏方を担っていたが役者として舞台に上がることになる。その後ラジオ放送や映画にも出演。新築地劇団解散後いくつもの劇団を経験し、東宝退社後は劇団「新大衆」結成に加わる。戦後NHKレッドパージで一時期一切出演不能にされるが、民放ラジオが開始され多数出演、「ララミー牧場」の声優などテレビにも出演するようになる。 日本放送芸能家協会(放芸協)や日本芸能実演家団体協議会(芸団協)を設立、芸能界初の協同組合(東京芸能人国民健康保険組合)を結成、俳優の地位や生活向上を図るために尽力した。民放連との会議席上で倒れて亡くなった。 若いころより伝統こけしの収集を続け著書を出している。 |
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| 撮影日:0000.00.00 | |
| 著書・作品 参考資料・サイト紹介 『こけしの旅』(共著)平凡社、『こけし古作図譜』(共編)こけしの会、『こけしの世界[こけしの世界?木偶と木地師たち][人形の歴史?こけし系譜考]』(共著)グラフィック社 |
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福原麟太郎ふくはら りんたろう |
| 墓碑位置:1種20号12側*番 職 業:英文学者 略 歴:日本英文学会会長。特に「トマス・グレイ研究」の権威。 |
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| 撮影日:0000.00.00 | |
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古川緑波ふるかわ ろっぱ |
| 墓碑位置:1種12号7側*番 職 業:喜劇俳優 略 歴:本名、郁郎。「映画時代」の記者で映画批評を書いたが、宝塚レビューの舞台をふむ。声帯模写を得意とし、徳川夢声や大辻司郎と劇団「笑いの王国」の結成に参加。その後東宝に加入、古川緑波一座を結成した。代表作に『弥次喜多道中膝栗毛』がある。映画出演も多く、声帯模写の創始者としても知られている。 |
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| 撮影日:0000.00.00 | |
| 著書・作品 □□□□□□ 参考資料・サイト紹介 |
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| 墓碑位置:* 職 業:* 略 歴:* |
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| 撮影日:0000.00.00 | |
| 著書・作品 □□□□□□ 参考資料・サイト紹介 |
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| Com-Support/雑司ケ谷霊園/雑司ケ谷霊園に眠る著名人 あ・か・さ・た・な・は・ま・や・ら・わ |
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