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| 50音別/あ か さ た な は ま や ら わ [参考資料・サイト一覧] |
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愛知揆一あいち きいち |
| 墓碑位置:1-1-10側49番 職 業:政治家 略 歴:宮城県仙台市出身。父親は物理学者、母親の実家は代々の漢学者系。仙台二中時代に父が急死。仙台二高を経て東大法学部を卒業。文部大臣、外務大臣、大蔵大臣など歴任、岸・池田・佐藤・田中各内閣に関わる。沖縄の返還交渉に心血を注いだ。田中内閣の蔵相時、石油危機の渦中に過労のため急死。首相の地位につくべき人であったという。 |
| 参考資料・サイト紹介 ・宮城県仙台第二高等学校同窓会/百年の逸材/巨星墜つ アインシュタイン博士と親交のあった物理学者、東北大学創立者のひとりである教授、愛知敬一博士の長男として1907(明治40)年10月10日仙台に生まれる。母も実家は代々の漢学者系統で、一家を上げての学者家庭だった。 |
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安部磯雄あべ いそお |
| 墓碑位置:1-1-10側39番 職 業:社会運動家 略 歴:福岡県出身。キリスト教社会主義者。明治34年(1901)に、片山潜、幸徳秋水、木下尚江、河上清、西川光二郎の6人による日本最初の平和主義と民主主義の社会主義政党「社会民主党」を結成するが、政府が2日後に解散命令。その後、組織変更を行い社会平民党として結社届を出すが即日禁止となる。日露戦争では幸徳秋水らと非戦論を提唱した。 |
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| 1901年早稲田大学野球部を創設し次いで第一回渡米を敢行。その後一貫して学生野球の育成に努め「学生野球の父」と仰がれる。日本学生野球協会会長を務める。 | |
| 著書・作品 『社会問題叢書』/戦前期の労働・婦人・農村・人口など、さまざまな社会問題の実態と研究を知る基礎資料。1925〜1926年文化学会出版部、現在は2002年に日本図書センターより出版。 参考資料・サイト紹介 |
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アリス・ミラー Alice Millerありす・みらー |
| 墓碑位置:1種東6号1側9番 職 業:宣教師 略 歴:ケンタッキー州アーリントン出身。明治28年(1895)来日後、明治39年まで四谷教会、明治39から昭和3年までを自身が設立した千駄ヶ谷教会を拠点に、貧困児童の教育や孤児の養育、働く母親を助けるための幼児保育活動など、地域の人々が必要とした福祉活動に尽力した。聖路加病院で亡くなる。 ミラーの実践した活動について、本人の記録としてはほとんど残されていない。明治25年(1892)に来日し、後に雑司ヶ谷で活動したJ.M.マッケーレブの著作に記録が見られる。※J.M.マッケーレブ/明治40年(1907)に雑司ヶ谷学院と雑司ヶ谷旧宣教師館を建て、昭和16年(1941)まで雑司ヶ谷地域で活動、その後自ら幼児保育活動も行った。 ※ミラーのバイブル・ウーマンであった倉知正猪が保管した遺品のオルガンが現存している(雑司が谷旧宣教師館に展示)。 |
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| 撮影日:0000.00.00 | |
| 参考資料 ・雑司が谷旧宣教師館だより 第41(100周年記念)号(2007.11.01発行) ・地域福祉の基礎を築いた宣教師たち アリス・ミラー/浜地真実子 著/豊島区郷土資料館研究紀要『生活と文化』第16号(2007.03.01発行) |
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安藤鶴夫あんどう つるお |
| 墓碑位置:1-19-4側**番 職 業:演劇評論家、小説家、劇作家 略 歴:本名、花島鶴夫。義太夫語りの八代目竹本都太夫(鶴吉)の長男として浅草向柳原町に生まれる。歌舞伎・文楽・落語など古典芸能に精通した評論家。芸能記者として執筆、小説も書く。「アンツルさん」のニックネームで親しまれた。 |
| 著書・作品 『巷談本牧亭』/昭和中期の上野本牧亭を舞台に講談師、落語家、娘義太夫など日本伝統話芸の芸人達の姿を描き直木賞を受賞。 『三木助歳時記(絶筆)』/下町の生活感溢れるエッセイ、噺家の三代目桂三木助にスポットをあてた芸談物。 『文楽 芸と人』朝日選書150、『わが落語鑑賞』など多数。 |
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伊澤修二いざわ しゅうじ |
| 墓碑位置:1-10-8側1番 職 業:教育者 略 歴:長野県高遠町出身。24才で愛知県師範学校の校長になり、東京音楽学校、東京高等師範学校等の校長を歴任。西洋音楽の普及に尽力し、日本近代音楽教育の基礎を築く。「小学唱歌」編集など教科書編纂の他にも、国家教育運動、師範教育、音楽教育、体育教育、盲唖教育、台湾をはじめとする植民地教育および中国語の言語研究に取り組み、晩年は吃音矯正事業に於いて先駆的略歴を残している。 彼が、視話法による吃音矯正の社会事業に乗り出したきっかけは、末弟の末五郎のどもりを治すためであった。アメリカ留学中にアレキサンダー・グラハム・ベル(電話発明者)から学んだ“英語の発音矯正のための視話法”、その原理を吃音矯正に応用したのである。伊澤多喜男(同霊園1種14号12側1番)は二番目の弟。 |
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| 撮影日:2007.02.10 |
| 著書・作品 『洋楽事始』、『教育学』 参考資料・サイト紹介 |
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伊澤多喜男いざわ たきお |
| 墓碑位置:1-14-12側1番 職 業:政治家、内務官僚 略 歴:長野県高遠町出身、長兄は伊澤修二(同霊園1種10号8側1号)。和歌山・愛媛・新潟の県知事、警視総監、貴族院議員、台湾総督、東京市長、枢密顧問官等を歴任。政界に隠然たる力を発揮した。母親の十三回忌の法要代を節約しふるさと高遠に山林を寄付、「母の森」と名付けたという話しがある。治山治水に心血を注いだ。多喜男の次男は劇作家の飯沢匡。同じ墓所に親子の墓がある。 |
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| 撮影日:2007.02.10 |
| 参考資料・サイト紹介 ・『伊沢多喜男と近代日本』大西比呂志(編)芙蓉書房出版/官僚政治家伊沢多喜男の活動を分析、近代日本における官僚と政治の関係を考察する書。 ・国立国会図書館:所蔵する資料の大多数は書簡が占め、発信者は官僚、政治家、財界人、台湾関係者、長野県関係者など多岐、伊沢多喜男発簡も100通余り。書類は政治活動全般にわたり、数量的にまとまっているのは、台湾関係、長野県関係、治山治水事業関係の資料。その他の行政資料には、貴族院議員・枢密顧問官時代の意見書・調査報告書、日記・手帳(1892年、1915年、1925年、1928〜1933年、1932〜1949年)、談話記録・原稿類がある。(国立国会図書館/伊沢多喜男関係文書 より) |
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飯沢 匡いいざわ ただす |
| 墓碑位置:1-14-12側*番 職 業:劇作家・小説家・演出家 略 歴:本名、伊澤紀(伊澤多喜男の次男)。戦後一貫して喜劇 作家として、とくにナンセンス喜劇に優れた才能を発揮。新劇の脚本兼演出家として『飯沢匡喜劇全集』など多数の著作がある。昭和のテレビ、ラジオ界では放送作家として、NHKラジオ「ヤン坊ニン坊トン坊」、NHKテレビ「ブーフーウー」シリーズで有名。 昭和52年(1977)から亡くなるまで「いわさきちひろ美術館」の初代館長を勤める(飯沢匡初代館長の死去にともない1995年には第2代館長に黒柳徹子が就任している)。 |
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| 撮影日:2006.10.27 |
| 著書・作品 『飯沢匡喜劇全集』全6巻・未来社/日本に知的センスと乾いたユーモアをもたらした飯沢匡喜劇のエッセンス。 『武器としての笑い』岩波新書/かつて儒教道徳しばられない江戸庶民は、諷刺の精神に富み笑いを楽しむ術を知っていた。西欧追随、大国志向の明治百年の間に笑いを忘れた日本人。庶民にとって最強の政治的武器である笑いの復権を目ざし、さまざまな場面での笑いの発掘を志す書。 『異史 明治天皇伝』新潮社/伯父・湯本武比古( 明治大正期の教育学者、大正天皇幼少期の教育掛)が残した記録や「国家教育」を推進するもう一人の伯父・伊沢修二の業績からその時代と「人間天皇」の姿を描く。 |
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泉 鏡花いずみ きょうか |
| 墓碑位置:1-1-13側33番 職 業:小説家 略 歴:本名、鏡太郎。石川県金沢市に、彫金・象嵌細工師の泉清次の長安として生まれる。母は江戸下谷の鼓師の娘・鈴(葛野流大鼓師中田万三郎豊喜の娘、宝生流の重鎮シテ松本金太郎の妹)。尾崎紅葉の作品を読み小説家を志し上京、尾崎紅葉門下の四天王の一人といわれるようになる。耽美で幻想的な小説・戯曲を数多く発表。当時より江戸戯作の流れを汲んだ作品は次々と舞台化され、現在も文学・映画・演劇界に強い影響を与えている。 幼くして母を亡くした鏡花は、亡母憧憬を基底に浪漫と幻想の世界を小説や戯曲という形式で紡ぎ出す。そして舞台や映画という手法によってさらに発展させた。鏡花の名は「共に美しいがそれを手中にはできない」幻のたとえを意味する「鏡花水月」の語からきているという。 樋口一葉の自宅で行われていた歌塾へ通っていたこともある。また鏡花婦人となった伊藤すずは、硯友社の新年会で神楽坂の芸妓桃太郎として出会った。 ※硯友社:明治18年(1885)に尾崎紅葉が山田美妙、石橋思案、丸岡九華、廣津柳浪、川上眉山等が結成した日本最初の純文学結社。現代文学の源流。 |
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| 撮影日:2007.02.10 |
| 著書・作品 『滝の白糸』『夜行巡査』『外科室』『湯島詣』『高野聖』『婦系図』『歌行燈』『夜叉ヶ池』『天守物語』 参考資料・サイト紹介 |
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| 著書・作品 ・CMソング/「伊東に行くならハトヤ〜♪」「〜チョコレートは明治♪」「ハウス・バーモントカレー♪」他 ・歌謡曲・童謡/「世界は二人のために」「恋の季節」「夜明けのうた」「夜明けのスキャット」「希望」「太陽がくれた季節」「見上げてごらん夜の星を」「手のひらを太陽に」など ・アニメ主題歌・テーマソング/「宇宙少年ソラン」「ゲゲゲの鬼太郎」「タイガーマスク」「それいけ!アンパンマン」「いい湯だな」「徹子の部屋」他 ・主な著書:「体験的音楽論」「ドレミファ交遊録」「新ドレミファ交遊録・ ミュージカルこそわが人生」、「真夜中のコーヒーブレイク」「見上げてごらん夜の星を」他 参考資料・サイト紹介 |
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市川左団次(三世)いちかわ さだんじ(さんせい) |
| 墓碑位置:1-8-17側*番 職 業:歌舞伎俳優 略 歴:本名、荒川清(生家は●●姓、六世市川門之助の養子となる)。屋号 高島屋。芸名は初め市川男虎、後に市川男女蔵。六代目尾上菊五郎の脇役を長くつとめた。菊五郎劇団を指導、理事に就任。芸域が広く、二枚目、女形で活躍。芸術院会員。晩年、日本俳優協会会長。 墓石裏面に「昭和五十四年十二月荒川欣也剣建之」とある。建之(けんのう)した欣也は長男で四世左団次。 |
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| 撮影日:2007.02.09 | |
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市川門之助(六世)いちかわ もんのすけ(ろくせい) |
| 墓碑位置:1種8号17側*番 職 業:歌舞伎俳優 略 歴:本名、荒川清太郎(生家は大西姓、芝居衣装師 荒川庄兵衛の養子となる)。屋号 滝野屋。素質を見込まれ子役(坂東秀之助と名乗る)として旅興業に加わり、後に大阪歌舞伎の最高峰であった市川宗家に入門(市川福之丞と改名)、芸風を9世市川団十郎に認められ正式に門下に入り二世市川女寅と改名、団十郎相手の女形を勤める。晩年六世門之助を襲名するが、女寅の時代が長かったため「女寅はん」の名で親しまた。 墓石正面に「玉蔓櫛振彦之墓」(歌舞伎の役名?)と定紋“四ツ紅葉”、裏には「六代 市川門之助 通稱荒川清太郎 大正三年八月が二十日」とある。市川左団次(三世)と並んで眠る。 |
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墓石の文字“玉蔓櫛振彦之墓”は、歌舞伎の女形の役名?![]() |
| 撮影日:2007.02.09 | |
| 参考資料・サイト紹介 ・島根県東出雲町/東出雲の三傑/市川門之助 |
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市川門之助(代々)いちかわ もんのすけ(だいだい) |
| 墓碑位置:1種8号17側*番 職 業:歌舞伎俳優 略 歴:二世市川団十郎の門弟・市川門之助に初まり、明治後期の荒川清太郎の門之助まで六世続いた。屋号 滝野屋。初代は若衆方、二世は立役の名優、三世・五世・六世は若女形の上手、四世は四世常磐津文字太夫。 墓石には代々の名前(五世まで確認、六世は同霊園別番地)、定紋“四ツ紅葉”が刻まれている。 |
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| 撮影日:2007.02.09 | |
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市原盛宏いちはら せいこう |
| 墓碑位置:1種9号7側2番 職 業:銀行家 略 歴:渋沢栄一に従い欧米各地を視察する。横浜市長、朝鮮銀行初代総裁などを努める。 |
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| 撮影日:0000.00.00 | |
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市村羽左衛門(15世)いちむら うざえもん(じゅうごせい) |
| 墓碑位置:1種15号2側17番 職 業:歌舞伎俳優 略 歴:屋号 橘屋。風姿と台詞まわしに優れ、立役の名優として一世を風靡した。和事*や世話物に妙技を残し、「直侍」「かさね」などが当り役。 *和事(わごと):歌舞伎でいかにも柔弱で頼りなげな色男の恋愛・愛欲模様を見せる演技および演出のこと。 |
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| 撮影日:0000.00.00 | |
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今村紫紅いまむら しこう |
| 墓碑位置:1種8号7側*番 職 業:日本画家 略 歴:本名、今村寿三郎。松本楓湖に師事。小林古径・安田靫彦らと紅児会を結成、新日本画の開拓中心となった。その後、日本美術院研究所で岡倉天心の指導を受ける。インド帰国後は日本美術院の再興に参加、第一回再興院展に「熱国之巻」を出品。大和絵の伝統に琳派・印象派・南画などの新解釈の手法を加え、革新的な日本画の開拓に努め、速水御舟ら後進に影響を与える。37歳の若さで病没。 |
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| 撮影日:0000.00.00 | |
| 著書・作品 『熱国之巻』/大胆な構図と華麗な色彩を特色とした南画風、彼の画風を物語る作品 『近江八景』/独自な画風が開花、第6回文展出品作 |
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伊藤長七いとう ちょうしち |
| 墓碑位置:1種2号4側*番 職 業:教育者 略 歴:東京府立五中(現都立小石川高校)初代校長。長野県諏訪出身。「伊藤長七 妻ふゆ之墓」の碑の文字は元東京市長永田秀次郎の書。島崎藤村著『破戒』(明治39年刊)に登場する土屋銀之助のモデルともいわれる。 |
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| 撮影日:0000.00.00 | |
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岩瀬忠震いわせ ただなり |
| 墓碑位置:1種1号8側6番 職 業:幕末の外交官 略 歴:開明派の幕臣。井上清直と共に日米修好通商条約でハリスとの交渉に尽力、外国奉行として調印の全権を担う。将軍継嗣問題で井伊直弼に左遷され、その後蟄居を命じられた。 |
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| 撮影日:0000.00.00 | |
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岩野泡鳴いわの ほうめい |
| 墓碑位置:1種20号12側18番 職 業:小説家、詩人、評論家 略 歴:『耽溺』で小説家として認められる。自然主義作家の中でも特異な立場を占めた。 |
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江戸家猫八(初世)えどや ねこはち(しょせい) |
| 墓碑位置:1種西6号3側18番 職 業:物真似芸人 略 歴:本名、岡田信吉。三世片岡市蔵門下の俳優(一之助)だったが、鉛毒で手が不自由になり転業。三遊亭小円朝一門の物真似芸人として寄席に出るようになる。虫や鳥の鳴き声を得意とし、毒舌で鳴らした。 猫八の名は、8種類のネコの鳴き真似をした江戸時代の物乞いの呼び名に由来するという。 |
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江戸家猫八(三世)えどや ねこはち(しょせい) |
| 墓碑位置:1種西6号3側18番 職 業:物真似芸人 略 歴:本名、岡田六郎。初代江戸家猫八の六男として東京・巣鴨に生まれ、1950年に襲名。鶏やコオロギの物まねを得意とした。またテレビでは、NHK「お笑い三人組」の八ちゃん役、「鬼平犯科帳」の彦十役、で活躍。名脇役として高く評価された。 ※二代目(大正1〜昭和61年/1912-1986/本名 長谷川栄太郎)は物真似師、漫談家。1931年に襲名。物真似以外の舞台では木下華声(きのした かせい)を名乗る。初代猫八の実子を弟子にして芸を伝え、1950年に3代目を譲っている。 |
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| 撮影日:0000.00.00 | |
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大井憲太郎おおい けんたろう |
| 墓碑位置:1種16号3側16番 職 業:政治家・社会運動家 略 歴:明治の政治家、自由民権運動の指導者。普通選挙・労農運動確立を目指すが、対外強攻策をとり伊藤内閣と対立し孤立。朝鮮内政改革を企てた大阪事件の首謀者でもある。 |
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大川橋蔵おおかわ はしぞう |
| 墓碑位置:1種1号13側44番 職 業:俳優 略 歴:本名、丹羽富成。戦後の映画俳優。東映時代劇の二枚目スターで大衆的娯楽作品に出演、テレビ時代劇「銭形平次」は当り役となる。舞台でも多くのファンを集めた。 |
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大熊氏広おおくま うじひろ |
| 墓碑位置:1種8号5側*番 職 業:彫刻家 略 歴:武蔵国足立郡中居村八幡木(現在の鳩ヶ谷市八幡木3丁目)生まれ。父伝右衛門は農業を営む俳人、祖父良平も学芸を好み文人や画家と交流がるなど、家庭環境の中で学問・芸術の影響を早くから受けていた。 20才で祖父と上京、日本初の国立美術学校の工部美術学校でイタリア人ラグーザに学ぶ。後にイアリア留学、ローマ美術学校卒業。帰国後は銅像制作に力を注ぎ洋風銅像彫刻の草分けとなる。東京彫刻会会員、文展(現在の日展)の審査員を務めた。 |
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| 撮影日:0000.00.00 | |
| 著書・作品 作品は100点以上で多くは肖像彫刻代。肖像彫刻のモデルは皇族・政治家軍人・実業家・学者と幅広い。大表作「大村益次郎像」 参考資料・サイト紹介 |
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大下藤次郎おおした とうじろう |
| 墓碑位置:1種1号12側*番 職 業:洋画家(水彩画家) 略 歴:水彩風景画を専門とし、大平洋画界を創立者した一人。雑誌『みづえ』を創刊した。日本水彩画会を創立し、研究所を設け後進の育成にあたった。 |
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大須賀乙字おおすが おつじ |
| 墓碑位置:1種16号9側10番 職 業:俳人 略 歴:本名、大須賀績(いさお)。河東碧梧桐の門下生だが、後に「俳壇復古論(伝統を尊重・古典復興)」を唱えて新傾向運動に反対した。新聞俳句の撰者などを務め虚子にも影響を与えた。スペイン風邪から40才で急逝。乙字忌(寒雷忌)は1月20日。 |
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大塚楠緒子おおつか なおこ(くすおこ) |
| 墓碑位置:1種1号11側9番 職 業:小説家・歌人・詩人 略 歴:東京生まれ。本名は久寿雄、通称は楠緒。東京控訴院(主に控訴 により裁判を行う裁判所)長大塚正男の長女として生まれる。 和歌は佐佐木信綱に学び、小説は夏目漱石の指導を受ける。女子高等師範付属女学校を主席で卒業、漱石の友人で東大美学教授・文学博士大塚(旧姓:小屋)保治を婿養子に迎える。日露戦争時に「君死にたまふことなかれ」を書いた与謝野晶子を援護し非戦長詩『お百度詣』を発表したのは有名。美貌の文学少女として評判となり、樋口一葉につぐ女流作家と早くから期待され、与謝野晶子とならび称されたが36才で早世。漱石の『虞美人草』のモデルとも言われ、漱石はその死を悼んだ。 ※夫 保治は東京帝国大で邦人教授として初めて美学・美術史講座を担当、日本における学術的美学の創始者といわれている。 |
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| 著書・作品 ・小説:『晴小袖』『離鴛鴦』『空薫(そらだき)』『露』他 |
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大町桂月おおまち けいげつ |
| 墓碑位置:1種9号5側17番 職 業:詩人、随筆家、評論家 略 歴:本名、大町芳衛。明治維新のさ中、土佐の高知に藩士の子として生まれる。東京帝国大学国文科在学中から新体詩や文芸評論を書く。『太陽』『文芸倶楽部』などに紀行文を発表、美文家として知られたが全国を旅して書いた紀行文で本領を発揮し広く読まれた。こよなく愛した青森県の蔦温泉(現:十和田市)の一室で亡くなる。ブ ナの原生林に囲まれた蔦温泉の敷地内にも墓がある。 ※文京区目白台3丁目の大町桂月旧居跡には明治42年から没するまで住んだ。 |
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| 著書・作品 『東京遊行記』『関東の山水』『古今史談』『月譜』『黄菊白菊』『すずりの水』『杖の跡』他 参考資料・サイト紹介 |
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小川笙船おがわ しょうせん |
| 墓碑位置:1種5号4側11番 職 業:医師 略 歴:江戸中期の町医者で「小石川養生所」創設・初代責任者として庶民の医療にあたった。「小石川養生所」は貧しい病人を救うための施療院で、日本最初の入院施設を持つ病院。その設置は身寄りのない貧窮者に医療施設を…」と、笙船が享保 7年(1722)に目安箱に建議して実現したもので、八代将軍吉宗の頃の事である。当時の南町奉行大岡越前守らが建設を担当しに小石川薬園内に開設された。 享保11年(1726)、笙船は職をゆずって隠居し風光明媚な「金沢」で過ごすが、病気のため江戸に戻り89才で世を去った。小石川の光岳寺に葬られ、遺言によって太寧寺に分骨されたという。現在は、雑司ヶ谷霊園に眠っている。 ※山本周五郎の小説「赤ひげ診療譚」、黒沢明監督の映画「赤ひげ」の“赤ひげ先生”は笙船がモデルになっている。 |
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| 撮影日:0000.00.00 | |
| 参考資料・サイト紹介 ・医療科学社/東京の医跡 ・ぶらり金沢散歩道 |
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荻野吟子おぎの ぎんこ |
| 墓碑位置:1種5号23側35番 職 業:医師 略 歴:埼玉県の旧家の生まれ。自らも婦人病に冒され女医の必要を痛感。女性が学問を修めることを望まない時代の中で、内務省を説き女子の医術開業受験を認めさせ、明治18年、35才で我が国初の女医となった(本郷湯島に荻野医院開業)。キリスト教の洗礼を受け婦人解放運動にも参加した。後進の女性に医師の道を拓いた功績は計りしれないが、晩年は恵まれなかった。 |
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| 以前は「女醫荻野吟子之墓」の墓石だけの周囲を常緑樹で囲む質素な墓で故人を偲ぶ趣きがあった。現在の墓になったのは平成13年5月、前年2月に荻野吟子の生涯を描いた舞台「命燃えて」が上演されたことがきっかけという。 | |
| 撮影日:2007.02.10 | |
| 著書・作品 ・荻野吟子をモデルにした作品:『花埋み』渡辺淳一(著)新潮社・集英社/荻野吟子の伝記小説。 『日本医科伝』吉村昭(著)講談社/荻野吟子をはじめ、日本近代医学の先駆的医家たち者12人の伝記短編集。 参考資料・サイト紹介 |
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小栗忠順(小栗上之介)おぐり ただまさ(おぐり こうずのすけ) |
| 墓碑位置:1種4B号5側*番 職 業:幕末の政治家 略 歴:日米修好通商条約批准のため渡米、帰国後は外国奉行、陸軍奉行、軍艦奉行、勘定奉行など軍事・財政の要職を歴任した。戊辰戦争の際、強硬な抗戦論を主張し罷免、所領地上州群馬郡権田村に隠棲していたが、新政府軍により捕らえられ斬首。 |
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| 撮影日:0000.00.00 | |
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押川春浪おしかわ しゅんろう |
| 墓碑位置:1種20号3側*番 職 業:小説家 略 歴:愛媛県松山市生れ。本名、方在(まさあり)。日露戦争前後に空想冒険小説を書き活躍、少年ファンを熱狂させた。「冒険小説」という新しいジャンルを定着させた。博文館で「冒険世界」の主筆も務める。スポーツ振興(野球の普及など)にも尽力した。キリスト教教育者 押川方義の息子。 |
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| 撮影日:0000.00.00 | |
| 著書・作品 『海島冒険奇譚 海底軍艦』/東京専門学(現早稲田大学)在学中に続篇6部を書き完結までに8年を要した。 『怪人鉄塔』『空中大飛行艇』『武侠艦隊』『東洋武侠団』『南極の怪事』他 参考資料・サイト紹介 |
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落合直澄おちあい なおずみ |
| 墓碑位置:1種4号B3側* 職 業:国学者 略 歴:武蔵国多摩郡駒木野村(青梅市)生まれ。初め堀秀成に、後に富樫広蔭に国学と語学を学ぶ。勤皇の志厚く兄尚亮と共に国事に奔走、戊辰戦争で官軍に従い功により恩賞を受ける。神祇官宣教権少博士、後に豊受大神宮禰宜、多度津神社宮司、出雲大社少宮司、伊勢神宮禰宜などを経て大教正となる。また皇典講究所講師に招かれた。 |
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| 著書・作品 『太古史年歴考』『日本古代文字考』『古事記講録』 |
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尾上梅幸(六世)おのえ ばいこう(ろくせい) |
| 墓碑位置:1種15号2側*番 職 業:歌舞伎俳優 略 歴:本名、寺島 榮之助(てらしま えいのすけ)。五世尾上菊五郎の養子となる。屋号 音羽屋。養子に優れ女形で世話物に優れた技芸を示す。十五世市村羽左衛門の名相方とうたわれた。 水鉢の正面に、定紋“重ね扇に抱き柏”が刻まれている。 |
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尾上菊五郎(六世)おのえ きくごろう(ろくせい) |
| 墓碑位置:1種17号19側*番 職 業:歌舞伎俳優 略 歴:本名、寺島 幸三。屋号 音羽屋。生後一年に満たない頃に初舞台を踏む。近代的演技演出に意欲的で、女形と舞踊に優れていた。昭和5(1930)年に後継者養成のための日本俳優学校を創設している。文化勲章授章。 水鉢の正面に、定紋“重ね扇に抱き柏”が大きく刻まれている。 |
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| 撮影日:0000.00.00 | |
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鬼あざみ清吉おにあざみ せいきち |
| 墓碑位置:1-8-5側*番 職 業:江戸の盗賊 略 歴:河竹黙阿弥作「小袖曽我薊色縫(こそでそがあざみいろぬい)」(通称「十六夜清心(いざよいせいしん)」)のモデル。題材となった盗賊清吉は、鬼薊の入墨に僧侶姿で暴れ回り、世に鬼坊主と呼ばれてた。いつの頃からか、受験生が合格祈願のためにお参りするようになった。 ※墓所説明板より |
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| 撮影日:2006.10.27 | |
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| 墓碑位置:* 職 業:* 略 歴:* |
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| 撮影日:0000.00.00 | |
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