小島 静子
平成元年を迎え今更空襲体験などと陳腐かも知れないが戦後既に四十四年、もう一度、戦禍の爪痕を振り返って見よう。
老化した私の頭脳(あたま)は遠い遥かな日の記憶などをいつか灰色の暈(ぼかし)の中へ確実に消して行く。
(一)防空壕
殆ど警報が連日の東京、それでも主婦たちは食料品の買出しに出かけて行く。私も警報解除の間を見て二人の子連れで池袋駅から省線に乗る。真昼の車内はリュックを肩の女性達で混雑、幼児は遠足気分で騒ぎ廻っていた。
浦和で下車、妹の家で昼餉を共にし乍らのおしゃべりも楽しい。持参の亡妹の錦紗の袷(あわせ)はまだ移り香も生々しく“ごめんなさいね”と手を合せ農家へ芋の交換用に委託し帰り路につく。
池袋駅で警報発令、子の手を引いて一生懸命走った。家の近くで空襲に変った。幸い、小学校の正門前で、先生達は防空壕に飛び込んだ。「学校の前の家の者ですが子供だけでも入れて下さい!!」と叫んだが「学校専用だから駄目」とバタンと戸が締った。鳴り響くサイレン、頭上の爆音、泣き喚(わめ)く子を横倒しにして上に被(かぶ)さった。“この子らは死なせられない”と必死で押さえていたが背中の芋がゴロゴロ揺れて転び、顔と手から血が流れた。
やがて警報も解除され防空壕を出た教師群を、血だらけの赤鬼の顔でにらみつけたが誰も振り向かなかった。この緊急時、心あらば幼子の一人や二人入れられるのではないか、又隣組み同志でもある筈と私は顔と手の痛みも重なり何としても許せないと憤慨した。
(二)わが家燃ゆ―単純馬鹿の大誤算
四月十三日金曜日、アメリカ大統領ルーズベルトの死去がラジオで放送された。
最近、定期便のように敵の偵察隊が帝都へ侵入する筈の時刻だが音沙汰なく、又友軍機の影もない。さてはアメリカさん「哀悼のために自粛休戦仕(つかまつ)り候」と垂れ幕でも掲げたのかとひとり勝手に決め静かな青い空を見上げて居た。
中・高校生は登校、気分は最高とばかり嬉しくなって私は行動開始。先づ湿地の防空壕から全員のリュックサックを取り出し長い縁側に衣類を一杯に広げて日光消毒。食料品を点検、入れ替え、家の周辺の大掃除、燃ゆるもの総て拾い集めて風呂を沸す事にした。焚口の火は景気よくパチパチと燃え、久々の熱い入浴に親子共ゆっくりと手を延した。着替えをして脱いだ物はすぐ洗濯して四間(けん)の長い物干竿に掛けた。“さあこれでよし、一晩だけの辛抱、明日になれば竿のものは乾燥する。再びリュックに詰めれば万事OK”。
早めに夕食も終えた。縁先の干物は春の生暖かい夜風に翻(ひるが)えっている。“やっぱりあちらさん休戦日。ほんとうに運がよく私はお仕事も沢山出来てうれしい”とご機嫌で日光浴の衣類を整理し、その他全部をリュックに詰め名札等も書き直した。縁側の干物は明日の仕事とし今日はお仕舞いと、玄関の三畳間のテーブルの上にリュックを重ねて、満足げに振り返り眺めた。

「さあ今夜だけでもせめて安心してゆっくり眠りたいですね」とまだ早いが十時頃横になった。途端(とたん)、空襲警報発令。“変だなあ警戒警報の予告もなしに”と思ったが、空襲のサイレンは狂ったように鳴り続けている。さあ大変!!ととに角、防空壕へ飛び込んだ。しかし既に、地震、雷、火事を取り交ような狂躁音、ヒュル、ヒュルと焼夷弾が落されて居た。油脂が防空壕の中へ流れ込み息苦しく壕の外へ出たが、わが家は勿論、見ゆる限り紅蓮(ぐれん)の焔である。
警防団員は「危険ですから早く逃げて下さい!!危険です、急いで、急いで」と絶叫、只叫び続けるばかり。私達はメガホンの叫びを後に避難の群集に続いた。一個のリュックさえ持ち出せなかった。何たる迂闊(うかつ)、周囲の喧騒(けんそう)は一瞬私の頭かスーと消えた。
単細胞の私は「アメリカ大統領ルーズベルトの死」と言う大魔術に惑わされての大誤算であった。一生償えない悔みと東京罹災の泣き笑いの思い出だけが残ったのであった。
(三)貴金属供出
大平洋戦争勃発の前後と思うが、東京都庁から「自家」で眠っている貴金属を供出して貰いたい」と要請された。私達は「ほしがりません勝つまでは」と誓い、眠っていない宝物迄挙(こぞ)って供出し、東京都知事よりの立派な感謝状を長押(なげし)に掲げて満足していた。私の家からは亡き舅(しゅうと)の遺品で胴回り三十五センチ位、絵図は〔忠臣楠公父子櫻井の惜別〕で、銀・銅の精巧な象眼細工の見事な火鉢であった。その他、金、銀側時計の外枠、金銀の眼鏡のフレーム、金・銀の指輪等、愛国心に燃えた若い私達は惜気もなく供出に協力したのである。第二回目は鉄、銅製品の総て、鍋釜等は勿論、窓格子の鉄棒、レール、戸車、その他生活必需品にまで及んだ。
やがてわが家もB29により灰燼に帰した。翌日避難先の小学校から立教大学校舎へ移動する事となり憔悴した罹災者達は汚れた姿の集団で繋がれた囚人のように足を引きずり乍ら歩いて居る。校舎の裏横側にふと目を止めた。それは何と三年も前に挙(こぞ)って供出した筈の貴金属ではないか。風雪に晒され、汚れ錆び、破損したまま山と積んで捨てられて居るのだ。当時わが家供出の宣徳火鉢と同じ形の物も無残に青黒く錆びて潰れ転っていた。ああ、あの時の愛国心とは一体何の為であったのか。軍部の「勝った、勝った」の掛声に善良なる国民はただ踊らされて居た紙芝居に過ぎなかったのだ。鍋よ、釜よ、せめて砲弾の一片ともなり戦果の影に散ったのなら本望でもあっただろうに残念、無念の事と私の胸も震えた。大学校庭の新緑が目に滲みて痛い。
罹災者の群は今戦火に家も財も失い、裸となって行く先のない明日に向って黙々と歩く。
(四)二つのランドセル
家から近い豊島師範付属小学校に合格した娘は入学の日を千秋の思いで待ちわびた。
制服、制帽は調達出来たがランドセルは、東京では入手困難である。群馬に住む弟が、東奔西走して、姪野のために入手出来た赤い皮のランドセルが届けられた。大喜びの娘は一日中制服制帽、ランドセルを肩にファッションショーに余念がない。喜び一杯の一年生。
或る日配達された荷物、それは思いがけなく付属小学校から特配された赤いランドセルであった。びっくり仰天、今度は二つを肩に代る代る掛け跳ね廻る。思えばこの御時世勿体ない贅沢な限りで、何れ入学日に学校へお返しする事とし娘にもよく言い含め納得したがランドセル二つを未練がましく抱きしめて悲しそうに元気がない。贅沢は許せない。
三月学校からの通達で「空襲もますます激しくなり遠距離通学者の多い本校は最早、危険状態である為戦争終結まで休校する。早急、縁故疎開を願いたい。終戦後開校の節は無条件で入学を許可する」との事態となった。
わが家も疎開決定、荷造りを始めたが既に遅く未発送のまま灰となり、勿論二つの赤いランドセルも一緒に昇天してしまった。
幼い子のショックは非常に大きく翌朝焼跡に何時までも、何時までも泣いて居た。
(五)警防団
池袋三丁目に警防団が設置される事になった。小学校の東南部の塀を壊し詰所が出来上ったが困ったことには尤も必要とする水場が遠い。用務員室は反対側の角で相当の距離もあり急場の間に合わない。そこでわが家に白羽の矢が当ったのである。板塀に囲まれた家だが門柱には扉がなく出入自由、入って近くにポンプ井戸があり、家内台所には瓦斯(ガス)、水道完備、団員は非常に喜んだ。詰所には赤い手押ポンプ一式、梯子、水槽、その他必需品全部が納入され心強い限りとなった。
警報のサイレンは頻繁に都民を脅(おびやか)す。そして私には思いがけない多忙の仕事が振りかかって来た。それは警報発令になると昼夜を問わず直先に家にある大ヤカン四、五個の湯を瓦斯で沸かす(これは真冬の仕事でポンプの潤滑油が凍り作動出来ぬ為)、向いの詰所から団員が駆けつける、熱いヤカンを私が渡す、それを受け取り詰所へ走る。この作業を繰り返す、暖められた油が漸く溶けてホースの水が出始めた頃に警報解除となり「骨折り損の草臥(くたび)れ儲け」の第一巻の終りとなる。現代には想像さえ出来ぬ笑えぬ事実であった。
幸い町会附近は直接の空襲もなく、赤いポンプは油を溶かしただけで大晦(おおつごもり)を迎えた。乏しい材料で作ったお節料理の少々を「一口ずつですがどうぞ」とお福分けを私は届けた。
翌年四月十三日警防団もわが家も仲よく焼失した。翌日避難先で逢った団員は「色々お世話になりながらお役に立ちませんで…」と丁重に頭を下げられた。彼も家族も罹災者。彼の責任のような悲しいご挨拶に涙をのんだ。
(六)白い灰の本の墓
被災の翌朝漸く探し当てた家跡、煙霧の中の幻(まぼろし)の様な廃墟、“此処が東京?”唖然としていた。溶けて飴のようなガラス、毛糸が焼け焦げて絡み合ったような電線、一匹の蛇が生きて動いている不気味さ、口から噴水のように水を噴き上げていた水道管。血色の太陽は少しづつ明るくなって来た。
お隣を覗いた。何もない焼原に真白い四角い物が並んでいた。不思議で近づいて確かめたのである。ああこれは重なった儘(まま)の沢山の本の残骸であった。強力な火に焼かれ、幸い人には触れられず本の形の真白い灰、灰の本となって残されて居た物であった。
この家の御主人は学習院の教授で、御子息も同じ教授、お手伝いさんと三人家族で玄関は閉められている日が多かった。国文学者の老先生は髪も髭も白く御立派な風格で近づき難いが若先生は如何にも現代人らしくお逢いする時優しく御挨拶された。
私の推測だが、国文学者の老先生は一生を賭けて蒐集された文献、本に対する愛着、蔵書の書庫との惜別は断腸の思いで爆音の下に独り見守り続けて居られた事と胸が痛んだ。あまりにも白く美しい灰の本の墓に合掌し、悲しくお別れした。