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4・13 根津山小さな追悼会タイトル
更新日:07.11.17 

―10周年記念文集から―



よみがえったあの日
 「4・13根津山小さな追悼会」に参加して

ノンフィクション・ライター 向井 承子


 四月十三日。先年、亡くなった母は、この日を「戦災記念日」と呼び、終生、その思い出語りに明け暮れた。私たちは当時、立教大学の近くで空襲に逢ったのだが、母の語りがあまりにも鮮烈なもので、当時六才の私の記憶がほんとうに自分のものなのか、母の語りが刷り込まれてしまったものなのか、判らない始末である。
 でも、「わがまち雑司が谷」を編集される谷口さんから「あの日」のことを書くようにとご依頼を受けた時は、とても嬉しかった。犠牲者の多い三月十日については比較的伝えられてはいるものの、四月十三日についてはほとんど語られることがない。幼い記憶でも役に立つならと思い立った次第である。
 追悼会で、さまざまな関係者の方たちの証言を耳にしていると、時間が一気に引き戻されるのだった。確かに私は、このすぐ近くで炎に包まれ、阿鼻叫喚の人々と共に生死の境を逃げまどっていた。だが、ふと現実に戻れば、あたりはビル街の静かな昼下がりで、ベンチにたむろする若い人々には戦争の影もない。歴史の風化に焦燥感も覚えるのだった。しかし、文章に綴るには私の記憶は幼な過ぎて、ちぎれちぎれの断片にすぎない。だが幸い、一九九四年に九十才で亡くなった母があの日のことを歌にして残していた。しろうとの拙いものでまことに恐縮だが、幼児の記憶を補うために合わせてご紹介させていただくことをお許しいただきたい。
 遠い記憶の彼方をたどると、毎日のように鳴り響いていた爆弾や焼夷弾の落下音に行き着く。ひゅるひゅるとかん高い笛のように空気を引き裂く音が聞こえると、その直後には、炸裂の大音響が拡がる。大地が揺れ防空壕の壁が崩れる。死の意味など判らないままに母にすがり兄の手を握っていたことを覚えている。

 死ぬ時は
 「お手々つないで行きましょ」と
 無心のわが子笑顔見せつつ      静子

  (以下、歌はすべて亡母小島静子の歌集「馬鈴著の花」より)

 三月十日のことも語らせていただこう。あの日は、空襲警報のサイレン、轟々と空に響くB29の爆音、探照灯のきらめき、高射砲の音、すべてがいつもの大空襲とは違うただならなさだった。おそるおそる防空壕から首を出した豊島区の子どもの記憶に残る三月十日の大空襲とは、はるか遠景に拡がる紅色とオレンジ色の光の帯。巨大な遠花火のような異様な美しさでいまも目に焼きついている。

 さて、四月十三日。その日は警戒警報が鳴り、やがて解除されただけの静かな一日だった。だれが流したのか、ルーズベルトが死んだので今日は空襲はない、との噂が伝わっていたらしい。

 夕暮れて警戒警報解除となり
 大根一本の配給を受く


 おとなたちはいつになくくつろいで、母は久々に衣類の洗濯にかかり、いつもなら防空着に身を固めて床に着くのに、その日に限って自家風呂を沸かし、寝巻に着がえて休んだ。
 警戒警報も鳴らず、突然の空襲警報だった。揺り起こされた時には、煙が漂い焼夷弾がつぎつぎと炸裂する大音響に包まれていた。直ちに庭先の防空壕に飛び込んだものの、ガソリンの匂いが立ち込めて息も苦しくなってくる。たまりかねて外に飛び出すと、すでに我が家はオレンジ色の猛炎に包まれていた。母は毛布だけでも持ち出したいと炎の中に飛び込み、おびえた私は兄の手をふり切りあらぬ方に駆けだしていた。遠い記憶には四方から覆いかぶさるオレンジ色の炎、頭髪のじりじりと焦げる感触、臭気、炎を巻き上げながら倒れかかってくる何ものかが強烈に残っている。

 流れ入る油脂焼夷弾の臭気満ち
 壕逃れ出て深き呼吸す


 子は親の親は子の名を叫びつつ
 火群(ほむら)の中を逃げまどうなり


 父とははぐれ、ようよう出会った母と兄とともに逃げて逃げて、その先の原っぱに野宿。原っぱは赤々と燃える町に囲まれ、夜通し時限爆弾が炸裂をくり返していた。そこがどの辺りだったのか。それを尋ねられる人々は皆、すでに世を去っている。
 たった一枚の毛布に親子でくるまって横になった。夜露が衣服にしみてきたころ、そっと毛布をかけてくれた人がいた。小さなお子さんにどうぞ、とあたたかい声だった。地獄の底でやさしさに触れた。今も耳に残る声である。
 翌朝、どす黒く煤けた空に黒ずんだ紅色の太陽が昇った。先年、フィリピンのピナツボ火山噴火の報道で、噴煙のむこうにぼんやりとかすむ太陽がテレビに映ったが、四月十四日の朝の太陽はあんな感じだった。

 空襲の夜は明けたけれど
 薄暗き煙霧の中に血色の太陽


 あたりは一面焼け野原。池袋はまさに瓦礫の町だった。住まいは立教大学と豊島師範に近いあたりだったが、焼けただれた町は幼児にはまるで見知らぬ世界だった。
 それから、北海道に疎開するため上野に移動した。その間の記憶は空白である。小学校を利用した避難所で配給されたもみ殻入りのおにぎりに添えられた焼け焦げた味噌のことしかおぼえていない。
 上野駅でも空襲に襲われ上野の山に作られた巨大な防空壕に逃げ込んだこと、その時、艦載機の襲撃に逢ったことは覚えている。教わったとおりに口や目、耳を手で抑えて道端に伏せたからだの脇を機銃掃射の弾がかすめていった。
 それから、縁者を頼って北海道に移った。家畜みたいに詰め込まれた貨車も空襲に襲われ、津軽海峡も魚雷が浮遊していた。
 ようようたどり着いた札幌。空襲には無縁の静けさが私には不思議だった。思えば、池袋で過ごした幼時はただ、空襲におびえる日々だったのである。

【本稿初出】「わがまち雑司が谷 第28号」1998年6月15日発行
挿絵:故・西岡敏郎(筆者叔父)作/戦時中の幼い筆者とお母様


 向井承子さんの被災体験に添えられた絵は、筆者の叔父・故西岡敏郎さんの描かれたものです。実はこの絵のお蔭で、手記・聞き書き入選作品集「東京に生きる」語りつぐふるさと東京 に向井さんのお母様小島静子さんの被災体験「昭和二十年四月十三日の回想から」が見つかりました。また小島静子さんは同作品集創刊号にも戦時下の日常と被災体験「東京空襲の体験」を応募し掲載されていることがわかりました。向井承子さんにご了承いただきまして、以下にご紹介いたします。


昭和二十年四月十三日の回想から

小島 静子


 平成元年を迎え今更空襲体験などと陳腐かも知れないが戦後既に四十四年、もう一度、戦禍の爪痕を振り返って見よう。
 老化した私の頭脳(あたま)は遠い遥かな日の記憶などをいつか灰色の暈(ぼかし)の中へ確実に消して行く。

(一)防空壕

 殆ど警報が連日の東京、それでも主婦たちは食料品の買出しに出かけて行く。私も警報解除の間を見て二人の子連れで池袋駅から省線に乗る。真昼の車内はリュックを肩の女性達で混雑、幼児は遠足気分で騒ぎ廻っていた。
 浦和で下車、妹の家で昼餉を共にし乍らのおしゃべりも楽しい。持参の亡妹の錦紗の袷(あわせ)はまだ移り香も生々しく“ごめんなさいね”と手を合せ農家へ芋の交換用に委託し帰り路につく。
 池袋駅で警報発令、子の手を引いて一生懸命走った。家の近くで空襲に変った。幸い、小学校の正門前で、先生達は防空壕に飛び込んだ。「学校の前の家の者ですが子供だけでも入れて下さい!!」と叫んだが「学校専用だから駄目」とバタンと戸が締った。鳴り響くサイレン、頭上の爆音、泣き喚(わめ)く子を横倒しにして上に被(かぶ)さった。“この子らは死なせられない”と必死で押さえていたが背中の芋がゴロゴロ揺れて転び、顔と手から血が流れた。
 やがて警報も解除され防空壕を出た教師群を、血だらけの赤鬼の顔でにらみつけたが誰も振り向かなかった。この緊急時、心あらば幼子の一人や二人入れられるのではないか、又隣組み同志でもある筈と私は顔と手の痛みも重なり何としても許せないと憤慨した。


(二)わが家燃ゆ―単純馬鹿の大誤算

 四月十三日金曜日、アメリカ大統領ルーズベルトの死去がラジオで放送された。
 最近、定期便のように敵の偵察隊が帝都へ侵入する筈の時刻だが音沙汰なく、又友軍機の影もない。さてはアメリカさん「哀悼のために自粛休戦仕(つかまつ)り候」と垂れ幕でも掲げたのかとひとり勝手に決め静かな青い空を見上げて居た。
 中・高校生は登校、気分は最高とばかり嬉しくなって私は行動開始。先づ湿地の防空壕から全員のリュックサックを取り出し長い縁側に衣類を一杯に広げて日光消毒。食料品を点検、入れ替え、家の周辺の大掃除、燃ゆるもの総て拾い集めて風呂を沸す事にした。焚口の火は景気よくパチパチと燃え、久々の熱い入浴に親子共ゆっくりと手を延した。着替えをして脱いだ物はすぐ洗濯して四間(けん)の長い物干竿に掛けた。“さあこれでよし、一晩だけの辛抱、明日になれば竿のものは乾燥する。再びリュックに詰めれば万事OK”。
 早めに夕食も終えた。縁先の干物は春の生暖かい夜風に翻(ひるが)えっている。“やっぱりあちらさん休戦日。ほんとうに運がよく私はお仕事も沢山出来てうれしい”とご機嫌で日光浴の衣類を整理し、その他全部をリュックに詰め名札等も書き直した。縁側の干物は明日の仕事とし今日はお仕舞いと、玄関の三畳間のテーブルの上にリュックを重ねて、満足げに振り返り眺めた。

 「さあ今夜だけでもせめて安心してゆっくり眠りたいですね」とまだ早いが十時頃横になった。途端(とたん)、空襲警報発令。“変だなあ警戒警報の予告もなしに”と思ったが、空襲のサイレンは狂ったように鳴り続けている。さあ大変!!ととに角、防空壕へ飛び込んだ。しかし既に、地震、雷、火事を取り交ような狂躁音、ヒュル、ヒュルと焼夷弾が落されて居た。油脂が防空壕の中へ流れ込み息苦しく壕の外へ出たが、わが家は勿論、見ゆる限り紅蓮(ぐれん)の焔である。
 警防団員は「危険ですから早く逃げて下さい!!危険です、急いで、急いで」と絶叫、只叫び続けるばかり。私達はメガホンの叫びを後に避難の群集に続いた。一個のリュックさえ持ち出せなかった。何たる迂闊(うかつ)、周囲の喧騒(けんそう)は一瞬私の頭かスーと消えた。
 単細胞の私は「アメリカ大統領ルーズベルトの死」と言う大魔術に惑わされての大誤算であった。一生償えない悔みと東京罹災の泣き笑いの思い出だけが残ったのであった。


(三)貴金属供出

 大平洋戦争勃発の前後と思うが、東京都庁から「自家」で眠っている貴金属を供出して貰いたい」と要請された。私達は「ほしがりません勝つまでは」と誓い、眠っていない宝物迄挙(こぞ)って供出し、東京都知事よりの立派な感謝状を長押(なげし)に掲げて満足していた。私の家からは亡き舅(しゅうと)の遺品で胴回り三十五センチ位、絵図は〔忠臣楠公父子櫻井の惜別〕で、銀・銅の精巧な象眼細工の見事な火鉢であった。その他、金、銀側時計の外枠、金銀の眼鏡のフレーム、金・銀の指輪等、愛国心に燃えた若い私達は惜気もなく供出に協力したのである。第二回目は鉄、銅製品の総て、鍋釜等は勿論、窓格子の鉄棒、レール、戸車、その他生活必需品にまで及んだ。
 やがてわが家もB29により灰燼に帰した。翌日避難先の小学校から立教大学校舎へ移動する事となり憔悴した罹災者達は汚れた姿の集団で繋がれた囚人のように足を引きずり乍ら歩いて居る。校舎の裏横側にふと目を止めた。それは何と三年も前に挙(こぞ)って供出した筈の貴金属ではないか。風雪に晒され、汚れ錆び、破損したまま山と積んで捨てられて居るのだ。当時わが家供出の宣徳火鉢と同じ形の物も無残に青黒く錆びて潰れ転っていた。ああ、あの時の愛国心とは一体何の為であったのか。軍部の「勝った、勝った」の掛声に善良なる国民はただ踊らされて居た紙芝居に過ぎなかったのだ。鍋よ、釜よ、せめて砲弾の一片ともなり戦果の影に散ったのなら本望でもあっただろうに残念、無念の事と私の胸も震えた。大学校庭の新緑が目に滲みて痛い。
 罹災者の群は今戦火に家も財も失い、裸となって行く先のない明日に向って黙々と歩く。


(四)二つのランドセル

 家から近い豊島師範付属小学校に合格した娘は入学の日を千秋の思いで待ちわびた。
 制服、制帽は調達出来たがランドセルは、東京では入手困難である。群馬に住む弟が、東奔西走して、姪野のために入手出来た赤い皮のランドセルが届けられた。大喜びの娘は一日中制服制帽、ランドセルを肩にファッションショーに余念がない。喜び一杯の一年生。
 或る日配達された荷物、それは思いがけなく付属小学校から特配された赤いランドセルであった。びっくり仰天、今度は二つを肩に代る代る掛け跳ね廻る。思えばこの御時世勿体ない贅沢な限りで、何れ入学日に学校へお返しする事とし娘にもよく言い含め納得したがランドセル二つを未練がましく抱きしめて悲しそうに元気がない。贅沢は許せない。
 三月学校からの通達で「空襲もますます激しくなり遠距離通学者の多い本校は最早、危険状態である為戦争終結まで休校する。早急、縁故疎開を願いたい。終戦後開校の節は無条件で入学を許可する」との事態となった。
 わが家も疎開決定、荷造りを始めたが既に遅く未発送のまま灰となり、勿論二つの赤いランドセルも一緒に昇天してしまった。
 幼い子のショックは非常に大きく翌朝焼跡に何時までも、何時までも泣いて居た。


(五)警防団

 池袋三丁目に警防団が設置される事になった。小学校の東南部の塀を壊し詰所が出来上ったが困ったことには尤も必要とする水場が遠い。用務員室は反対側の角で相当の距離もあり急場の間に合わない。そこでわが家に白羽の矢が当ったのである。板塀に囲まれた家だが門柱には扉がなく出入自由、入って近くにポンプ井戸があり、家内台所には瓦斯(ガス)、水道完備、団員は非常に喜んだ。詰所には赤い手押ポンプ一式、梯子、水槽、その他必需品全部が納入され心強い限りとなった。
 警報のサイレンは頻繁に都民を脅(おびやか)す。そして私には思いがけない多忙の仕事が振りかかって来た。それは警報発令になると昼夜を問わず直先に家にある大ヤカン四、五個の湯を瓦斯で沸かす(これは真冬の仕事でポンプの潤滑油が凍り作動出来ぬ為)、向いの詰所から団員が駆けつける、熱いヤカンを私が渡す、それを受け取り詰所へ走る。この作業を繰り返す、暖められた油が漸く溶けてホースの水が出始めた頃に警報解除となり「骨折り損の草臥(くたび)れ儲け」の第一巻の終りとなる。現代には想像さえ出来ぬ笑えぬ事実であった。
 幸い町会附近は直接の空襲もなく、赤いポンプは油を溶かしただけで大晦(おおつごもり)を迎えた。乏しい材料で作ったお節料理の少々を「一口ずつですがどうぞ」とお福分けを私は届けた。
 翌年四月十三日警防団もわが家も仲よく焼失した。翌日避難先で逢った団員は「色々お世話になりながらお役に立ちませんで…」と丁重に頭を下げられた。彼も家族も罹災者。彼の責任のような悲しいご挨拶に涙をのんだ。


(六)白い灰の本の墓

 被災の翌朝漸く探し当てた家跡、煙霧の中の幻(まぼろし)の様な廃墟、“此処が東京?”唖然としていた。溶けて飴のようなガラス、毛糸が焼け焦げて絡み合ったような電線、一匹の蛇が生きて動いている不気味さ、口から噴水のように水を噴き上げていた水道管。血色の太陽は少しづつ明るくなって来た。
 お隣を覗いた。何もない焼原に真白い四角い物が並んでいた。不思議で近づいて確かめたのである。ああこれは重なった儘(まま)の沢山の本の残骸であった。強力な火に焼かれ、幸い人には触れられず本の形の真白い灰、灰の本となって残されて居た物であった。
 この家の御主人は学習院の教授で、御子息も同じ教授、お手伝いさんと三人家族で玄関は閉められている日が多かった。国文学者の老先生は髪も髭も白く御立派な風格で近づき難いが若先生は如何にも現代人らしくお逢いする時優しく御挨拶された。
 私の推測だが、国文学者の老先生は一生を賭けて蒐集された文献、本に対する愛着、蔵書の書庫との惜別は断腸の思いで爆音の下に独り見守り続けて居られた事と胸が痛んだ。あまりにも白く美しい灰の本の墓に合掌し、悲しくお別れした。

(当時41才/執筆時85才)

「東京に生きる」語りつぐふるさと東京-第6回-より
1989年11月発行/東京都社会福祉総合センター
挿絵:西岡敏郎(筆者の弟さん)作




東京空襲の体験

小島静子


 昭和二十年当時私共は池袋三丁目に住んで居りました。世界第二次戦争も益々激しくB29による空襲は昼夜の区別なく全国的には勿論、東京都も甚大な被害を受けていました。戦々恐々の毎日町内会ではバケツリレーで屋上へ上ったり下りたり、敵兵を突くための竹槍訓練もいそがしく、警報解除の合図をみて鍋と家族の人数の外食券をもって雑炊食堂に並び、野菜(と言っても大根半分、ネギ一本)のために指定の八百屋さんに並びました。そして大切な事は赤紙一枚で召集された出征兵士のために小学校の校庭に集り日の丸の小旗を振って「わが大君に召されたる…」「勝ってくるぞと勇ましく…」等うたい乍ら子供を連れてみんなで送りました。同じ日同じ場所でこんどは名誉の戦死をされた方の御遺骨を迎えました。「海征かば…」と悲しい御帰還です。銃後の女子とはいえ息つく暇もないくらいでした。お天気の日は東武電車に乗って川越あたりまでサツマ芋の買出しです。リュックに一杯背負ってクタクタで夕方かえりますがやがて唯一の栄養食品のお芋もなくなり人参だけになりました。それでも大切な衣類は日に日に消えてゆきました。
 疎開のため折角荷造りしたものは発送出来ない内に制限され一点一点必需品だけ残してあとは家の中へ積んでおくだけ、この仕事も涙を飲んでの思い出の品々との別れでした。

 ようやく暖かい春の季節を迎え何となく心も柔らいだ三月十日の夜、B29数百機による初の絨毯爆撃によって江東区は全滅に近い状態となりました。新しく艦載機に至近距離からの銃撃も加え帝都は戦場となってしまいました。

 四月十三日金曜日ルーズベルトの亡くなった日です。まだ誰もが寝につかない十時頃突然空襲警報が鳴り出しました。警戒警報が鳴って続いて空襲警報が鳴る筈ですがどうした事かと驚いてとにかく防空壕へ飛び込みましたがもうその瞬間には私共の隣組の屋根の上には油脂焼夷弾が沢山に降って来ていたのです。地震と雷とが一緒になったような轟音とヒュルヒュルと言う音と共に防空壕の中は油脂が流れ込んで来たのです。もう苦しくて壕の外へ出ました。警防団の人達は「危険ですから早く逃げてください」と叫んで居るだけです。みんなでリュック一つ背負う事も出来ずただ家族の者が離れないように手と手を結んで猛火の中を暗い方暗い方へと群集と共に逃げました。子は親を呼び親は子の名を必死に呼んで走ります。絶えず焼夷弾と時限爆弾が落されて四方に火の手が上がります。みんな伏せの姿勢をとり乍ら阿鼻叫喚の中を走りどうやら命を拾う事が出来ましたが、その夜わが家は焼失いたしました。一物も残さず、一夜乞食となってしまいました。

 八月に(広島に)原爆が投下され、続いて長崎に、人類無視の惨酷な事態が続き終戦を迎えようやく平和の日を迎える事が出来ました。そして三十九年、苦難のドン底から今日に至りました。もし今後再び戦争の勃発となり核の時代にでもなった場合全世界は壊滅状態となります。万一生き残る事が出来たとしても食糧等すべてなくなり飢餓の中に死ぬしかありません。どんな事があっても再び戦争を起さないよう世界中の人々と手を握って平和のために祈りましょう。戦争体験者は既に老齢となり、消えてゆきます。焼け残った頭の中の小さいメモからつたない歌を書いてみました。

昭和十九年冬
○日の丸の旗に送られ若き等は 今日もいで征く霰ふる街
○虚か実か迷いの中にいで征きし 軍靴の音の遠く消えゆく
○再びは還れぬものを哀しくも 手を振り征きぬ若き男の子等
○戦いはいよいよ烈しく子を連れて 英霊迎う女子(おみな)等の日々
○若人は「勝ってくるぞ」といで征きしに 今英霊となりてかえり来
○かなしみは怒りとなりぬ抱かれし 白き霊(みたま)にあられ降るなり
○今日もまた御遺骨迎う人々の 肩に冷たく雪降りつもる
○幼等の遊び哀しも頭(こうべ)たれ 手をとり合いて「海征かば」うたう

二十年十二月頃
○終りなき戦いなりや年明けて 敵機襲来日毎に激し
○大空に雲の波紋のひろがりて 爆弾数多(あまた)昼の空襲
○成増に巨き爆弾墜ちたらし 地震に空に波紋ひろがる
○夕暮れて警戒解除の間を盗み 大根葱の配給所へゆく

三月十日江東区大空襲
○東京の空ことごとく燃ゆるかと ふるへおののき呆然と見し
○耳を押う狂躁曲か地獄絵か B29のしきり飛び交う
○ガクガクの膝をおさえて眺め居り この世の終りかと恐れおののく
○下町の三月十日の大空襲 肩抱き合いふるえ居たりき
○探照灯菊花の如き中心に 敵機飛べども砲火届かず
○高射砲敵機に届かず爆裂す サーチライトに機影入れども
○高射砲敵機の下にて爆裂し B29数多飛翔す
○七色の焔の中を数十機 B29はゆうゆうと飛ぶ

 下町の被害者の方々には殊に殊に申し訳ない事ですが遠く池袋方面から見ましたその光景はあまりにものすさまじさに動転し乍らかえって心は開き直りその美しさの極致に見とれてしまいました。御免なさい。もう悲憤の涙さえ出ないのです。どうぞお許し下さい。放心状態であったのです。

○百万ドル極彩色の映画よと 見つめ居たりき三月十日
○美の極限翼の色の七変化 B29のあまりに美し
○両翼のキラリキラリと瑠璃(ルリ)色に 光りて舞えり曲芸の如
○うつし世の終りの如く警報は 鳴りつづけたり帝都焼失

四月十三日 新宿、池袋方面空襲
○天地(あめつち)の裂けんとするや油脂漏れの 防空壕に親子抱き合う
○「死ぬ時はしっかりお手手つないでね」と 吾娘六歳のつぶらな瞳
「死ぬ時はお手手つないでゆきましょ」と、無心の承子防空壕にて
○空襲の夜は明けたれど薄暗き 煙霧の中に血色の太陽
○断末魔の悲鳴の如き警報の 夜通し鳴りてわが家焼失
○物すべて焼け失せ果てしわが住家 自失呆然消え跡に立つ
○何も彼も焼野と化せし家跡に 焼夷弾ケース三ツ拾へり
○焼跡に水道管のみ蛇の如 のたうち廻り水を吹き上ぐ
○罹災せし翌朝逢いし隣人は 「よくまあ御無事」と涙ぬぐべり
○罹災せしショックなりしや突然に わが声失せて聾唖者のごと
○戦災に一夜乞食となりしかど 親子手をとり倖せなりき
○戦災者は乞食といわれ悔しさと 悲しき心今も忘れじ

最近思うこと
 イギリスの或る村では一人の医師の提案で被爆時(核)には安楽死の薬が配布される事が裁決されたそうですが核の戦争にもなれば死以外には医師の手も及ばない訳です。仕掛けた国、仕掛けられた国は勿論、地球は全滅です。このような悲しい事態が起きては絶対にいけないのです。私達は戦争と言うものを再び起してはならないのです。
 今日の平和が永久に続きますよう努力しなければなりません。大正生れの男性方は多く戦場に果て、女性も既に最高年齢となりいずれ消えてゆきます。現在の若人達はわれわれ戦争体験者の残す一言でも肝に命じ、心にとめ平和の為に努力していただきたいと願います。

○罹災して三十九年忌(いま)わしき悪夢よ消えよ平和なる今日


(当時41才/執筆時80才)
       
「東京に生きる」語りつぐふるさと東京-昭和59年度-より
1985年2月発行/東京都社会福祉総合センター



「東京に生きる」語りつぐふるさと東京 手記・聞き書き入選作品集
東京都社会福祉総合センター(新宿区神楽河岸1-1)/編集・発行

 東京都社会福祉総合センターは東京都社会福祉協議会が都の委託を受け設置され、昭和59年からふるさと東京を語りつぐことを目的とした手記・聞き書き募集事業を行いました。
 初回発行は昭和60年2月(募集期間:昭和59年9月15日〜10月30日)。東京都社会福祉協議会へ問い合わせたところ組織の改編とともに平成8年で事業は終了したようだとのことでした。図書館で検索しても第1〜12回刊までしか確認できず、「東京に生きる」は第12回(平成8年)発行が最終刊であったと思われます。
 近代東京に生きた人々の暮らしぶりや社会状況など、さまざまな方々の視点で綴られています。今となってはもはや見聞きすることのできなくなったかつての東京を知る資料になっています。
 発行当時は都の公共図書館に全巻配本したとのことですが、現在豊島・文京・新宿区の図書館で検索しても残念なことに全巻揃っている所はありません。その中でも新宿区には第1・2・5〜12回と一番残っていました。ぜひご覧になってください。('07.10.13現在)




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