| 東京新聞(夕刊)2008年4月28日(月)
城北大空襲と小さな追悼会
いま必要な「記憶」語り継ぐ場 向井承子
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むかい・しょうこ=ノンフィクションライター 1939年、東京生まれ。北海道大法学部卒。主な著書に『患者追放』『脳死移植はどこへ行く?』など
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池袋駅東口から数分。ビルに囲まれた南池袋公園は、かつて根津山と呼ばれた雑木林の一角にある。一九四五年四月十三日、東京の豊島・渋谷などを襲った「城北大空襲」の炎を逃れて多くの人たちがここに避難、身元不明の焼死体が並べられ、埋められたことを、喧噪の池袋を歩く人たちは知っているのだろうか。
毎年四月、この公園では地域の人たちの手で、平和を祈り犠牲者を追悼する「4・13根津山小さな追悼会」が催されてきた。この数年、私も参加しているのは、私自身が城北大空襲の炎のなかを逃げまどう子どもだったためである。
下町の人口密集地を標的に十万人もの犠牲者を出した三月十日の東京大空襲は、まるで地平に拡がる火の帯のように見えた。だが、その夜は自分がB29三百三十機による夜間の無差別、低空からの油脂焼夷弾による絨毯爆撃の標的だった。幼い記憶には、空も地もただ轟音と炎の塊である。
油脂焼夷弾による絨毯爆撃とは、いわば空から油を撒いて火をつける手法である。息苦しさに壕を飛び出すとあたりは火の海。炎をくぐり人の群れと押し合いながらたどりついた空き地でいのちを救われた。その夜の死者は二千四百五十九名、焼失家屋は二十万戸。三月十日より爆撃規模は大きかったと聞くが、原っぱや雑木林が城北の人たちを大惨劇から救ったのだろう。
翌朝、黒く煤けた空にどす黒い太陽が浮かんだ。一面の灰燼の道を避難先を求め母と手をつないで歩くからだを、艦載機P51の機銃掃射がかすめた。いまもサイレンやプロペラ機の音には身がすくむ。イラクなどの空爆映像からは人々の悲鳴と恐怖が伝わる。私のなかで戦争はいまだに終っていないようである。
米軍による空襲は東京だけで百六回、日本の主要都市の大半を焼き尽くした本土空襲の死者は、発表機関で差はあるが最大五十万人とも推計されている。
空襲や戦争を語るのは難しい。体験に寄り添うだけでは被害者意識から離れられず、日本が加害者となった歴史を無化しがちである。だが、無差別の都市空襲といえば、たとえば日本が中国のナ南京や重慶などを襲った歴史がある。
一昨年、米国ネバダ州にある核実験博物館を訪ねた。広島・長崎への原爆投下は軍事産業を標的、第二次大戦の犠牲者を最小に抑えた、とする米国の「定説」の展示に見入っていると、同世代の中国人夫妻に話しかけられた。話し込み、話題はあの戦争に移った。南京、ヒロシマ…。加害者と被害者意識の交錯する日本人の思いを伝えるうちに、「私の国も核保有国」と中国人の夫がつぶやき、瞬間、戦争の正義をかざすのをためらわない米国とは違う戦の痛みを知るもの同士の共振を確かに感じた。政治的な言説だけが支配する場で、「人々の記憶」を伝えあったことが絆となったのか。
池袋の「小さな追悼会」は豊島区の惨劇を語り継ぐ場でもある。小さくていい。それぞれの地で「記憶」を語り継ぐ小さな作業こそがいま必要なのだと思う。
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